企業のちょっといい話

歴史の表舞台に出てこない企業人に焦点を当てた物語。

広島とマツダ

その日、広島平和大通りを埋めた30万人の観衆がいたる所で掲げたのは、家族の遺影であった◆1975年10月15日、広島東洋カープ初優勝パレード。「じいちゃんが喜んでるよ~」「ばあちゃんが待ってたぞ~」。涙の笑顔でそう叫ぶ彼らの姿を、パレードの車上から目にした山本浩二や衣笠祥男らはこみ上げるものをグッとこらえて手を振り返した。原爆投下から30年目の奇跡であった。草木も生えぬと言われた広島に球団が誕生したのは、終戦から僅か4年後の1949年。復興を象徴する市民球団として期待されたものの、最下位争いを繰り返し、経営難で観客の樽募金に支えられる程だった。しかし負けても負けても立ち向かう姿に、人々は戦後の混迷から這い上がる自らを重ね、一勝一勝に希望を見出してきたのである◆創設13年を経ても財政難が続くカープを救おうと1962年に球団社長を引き受けた三代社長・松田恒次にも逸話が残っている。開発費の融資を受けるべく、銀行の頭取と会合した時のことだ。「カープを見てやるとは、ゆとりがあるんですね」という頭取の皮肉に「道楽で見ようというのではありません」と気色ばんだのだ。そして続けた。「原爆で親子や兄弟を失い、その悲哀を晴らす場所さえ失った市民にとって球団は唯一の慰みの場。黙って消滅を見過ごす訳にはいかんのです」。当時はロータリーエンジン量産化で大変な時期だったが、それでも地域の希望の灯は消さないという恒次の信念を知り、頭取は即座に頭を下げたと言う◆悲願の初優勝を見ることなく恒次は1970年に没するが、あの優勝も、後に常勝軍団となる未来も、どこかで確信していたのではないか。被爆を経験したある婦人が、初優勝に涙してこう語っている。「生きるとは、諦めたらいかんということ」。その通り、諦めなかった人生にある日咲く、真っ赤な花の美しさよ。

 

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